「この仕事を辞めたら、負けですか」
何との勝負ですか?
「人生の正解がわかりません」
誰に提出するんですか?
「自分には価値がない気がします」
売る予定があるんですか?
三つとも質問には答えていません。答えの手前にある問いの立て方を外しました。
負けという言葉には勝敗表があるし、正解という言葉には採点者がいる。価値という言葉には値札が貼ってあります。
その勝敗表を作ったのは誰ですか?
その採点者は誰ですか?
その値札を貼ったのは誰ですか?
大抵は他人です。
親から渡されたものもあれば学校や会社で刷り込まれたものもあるし、業界の空気からも流れてくるタイムラインからも入ってくる。出どころは色々です。
私はこれを『座標汚染』と呼んでいます。他人の座標に照らして自分を測っている状態です。
苦しいのは測った結果が悪いからですか?
いいえ、違います。
測っている物差しが、そもそも他人のものだからです。
その座標はもうその人のコンフォートゾーンになっています。
コンフォートゾーンという言葉を私は快適な場所という意味で使っていません。そこから外れると戻ろうとする力が働く設定範囲のことです。外れると落ち着かないから居る。苦しいのに戻ってしまうのは、そういう仕組みだからです。
エフィカシーも同じ場所で決まります。自己能力に対する自己評価のことです。他人の物差しで測り続ければその評価も他人の目盛りで出ますし、エフィカシーが下がればコンフォートゾーンも一緒に下がり、設定点がいまの自分に落ちる。
「自分には価値がない気がします」というのは、他人の値札で自分を採点してその点数を設定点にした状態です。そこが設定点である限りそこから外れる行動は落ち着きませんし、うまくいきかけると自分で壊すようなことが起きるのも、それが理由です。
しかし、前提を外すのは気持ちの良いものでは決してありません。
汚染されていようが、その人はその座標の上に立っていますし、立ててしまっているんです。外せば一瞬、足場が消えてしまいます。
そしてその反応は必ず身体に出ます。
呼吸が浅くなる。肩が上がる。喉が詰まる。
あるいは、何も感じなくなる。
私は負荷そのものを悪いとは思いません。筋肉は負荷をかけなければ強くなりませんし、やったことのないことを始めるときも同じように負荷がかかります。負荷がなければ人間は変わりません。
問題になるのはいつも二つだけで、用量とそれに耐えられるカラダがあるかどうかです。
ここでいうカラダには呼吸も感情も意識も入っていて、どれだけ身体が強くても足場が抜けた瞬間に飲まれるなら、まだ耐えられるカラダになっていません。
前提を外す言葉は出す側のコストはゼロですが、受け取る側のコストが大きいのが問題です。
だからこそ、私はこの手の言葉をこちらから撃ち込みませんし、出すのは求められたときだけです。
読んでいただいているこのブログも、スクロールをやめればそこで終わりますし、用量の主導権は最初から読者にあります。
私が見ているのは、外す前にできなかったことができるようになったかどうかです。
かけられなかった電話をかけたか。行かなかった場所へ行ったか。言えなかったことを言えたか。身体が動いたかどうかで見ます。
外して空いた場所には何かが入ります。
そこに自分で選んだ設定点を置けるかどうかが本当の分かれ目です。
単純です。目標を達成している状態のほうを設定点に置いて、その状態の自分なら今日どう振る舞うかを、いまの自分が演じます。目標は座標なので演じられませんが、演じられるのは状態です。
そうすると、いまの自分との差が負荷として働きます。この負荷は消えませんし、消さなくてよいものです。その差が無ければ演じても意味がありません。
私は釣竿は渡しますけど魚は渡しませんし、何を釣るかは決まっていなくて構わないです。水に入れて待つという行為さえ決まっていれば、それでいいんです。
釣れたものを私のところへ見せに来る必要もありません。見せに来た瞬間に、外したはずの採点者の席へ今度は私が座ることになります。
そこには誰も座らせません。これは私自身への戒めでもあります。
答えを渡すのは簡単だし問いを外すのも簡単です。難しいのは抜けた足場を自分の身体で立て直せるところまで黙って待つことです。
だからこそ、呼吸が重要だと思っています。足場が抜けたときに戻る場所が自分の身体にあるかどうか。そこがなければ前提を外された人は別の誰かの座標にすぐ乗り換えるだけです。
私の言葉も、鵜呑みにしないでください。自分で考えて、自分で試して、自分の身体で確かめてください。
間違っていたら考え直せばいいんです。