腕を持つと、自分から腕を持ち上げる人がいます。
頭を触ると、自分から頭を持ち上げる人もいます。
私は持っただけです。動かしてくださいとは言っていません。
美容院のシャンプー台を思い出してください。台に頭を乗せているのに自分で首を浮かせている人がいますが、それと同じです。
本人に自覚はありませんし「重さを預けていいですよ」と言っても、その重さをこちらに預けはしない。
力が抜けないのか、人に気を使いすぎているのか、そもそも人を信用して頼ることができないのか。
心の側は見えません。
ただ、身体の一部を自身が持ち上げてしまっているのは事実です。
その様な状態を過緊張と言います。
過緊張のまま触れられると、どうなるか?
息が止まる。奥歯が噛み合う。足の指が丸まる。そのまま動かなくなる。手を離しても呼吸が戻ってこない。
このとき私がかけている圧は、そんなに強くありません。強く触れてもいないし、無理に伸ばしてもいない。それでも同じ人に同じ圧をかけて、何も起きない日もあります。
圧は同じなんです。
痛みそのものはあります。押されたんだから痛い。これは消えません。消さなくて良い。
そのあとに乗ってくるものがあります。痛いと感じる。怖いと思う。怖いから身体が固まる。固まったところをまた押されるからもっと痛い。もっと痛いからもっと怖い。怖いからまた固まる。
一周するたび増える。
一の痛みが十にも百にもなる。この増えた分を私は上乗せと呼んでいます。
だから施術中の私がずっと見ているのは、上乗せが出ていないかどうかです。
出ていたらそこで呼吸に移る。息を長めに吐いてもらう。鼻から吸って口からフーッと吐く。回数も秒数も決めていません。そもそも反応に飲まれている最中の人に、数を数えろなんて言っても無理です。
肩が下りて噛んでいた奥歯が緩む。
そこでも痛みは残りますし、痛いものは痛いままです。
一のままなら動けます。十になったら動けない。ここが分かれ目です。
手は止めません。止めたところで意味がないですから。
上乗せに気づいたら呼吸をしてもらったり、自分の力みを自分で捉えてもらって、それを意図的に緩める方向へ向かってもらいます。自分から手放してもらう。これは痛みを用いた方法の一つです。
食べているものの話になることもあれば、経絡の反射を使うやり方に切り替えることもあります。話をするだけのこともあります。
同じことが椅子の上でも布団の中でも起きています。
歯医者の椅子でまだ何もされていないのに手に力が入る。採血で針を見る前に目を逸らしたりもありますが、腰を痛めた翌朝、起き上がる前から「痛いぞ」と身構えるのも同じです。
身構えた時点で身体はもう固まっているし、固まった身体で動けば実際に痛いし、痛かったから次はもっと身構えるわけです。
上乗せは痛みを待ってくれません。触れられる前からもう出ているんですよ。
今朝、布団から起き上がる前に、もう身構えていませんでしたか?
矢の喩えが二つあります。二千数百年前の仏典にあるもので、どちらも釈迦の言葉として伝えられています。
一つ目。人が矢で射られる。そこへもう一本、二本目の矢が刺さる。
経典が分けているのは、身に受けるものと心に起きるものです。二本目に挙げているものの一つが、苦しいときに快楽へ行くことで、その理由は苦しさからの出口をそれ以外に知らないからだと書かれています。以前、降りられるかどうかという話を書きましたけど、あれと同じ場所を別の方角から見た話。
経典と私では行き先が違います。経典は二本目を受けない人の話をします。私はそこまで言いません。
上乗せがゼロになる可能性は十分あります。理想はゼロです、もちろん。
十が三になるだけでも動けます。一のままなら動ける、十になったら動けない、と前に書きました。初めはそれで足りるかもしれません。
ここで話しているのはまず動けるかどうかというところであって、最初から最後までの話をしているわけではありません。
二つ目。毒を塗った矢に射られた男の話。
男は言います。
射たのはどこの誰か?
どういう身分の者か?
弓は何でできているか?
矢羽はどの鳥の羽か?
それが分かるまでこの矢は抜かせない。
しかし、男は死んでしまいます。何も分からないうちに。
施術台の上でも似たようなことが起きます。
反応が出た人がその場で自分の中に理由を探し始めるんです。
何故怖いのか?
いつからなのか?
あのときのあれが原因ではないか?
考えている間は身体が固まったまま。
原因を辿るのが無駄だと言っているわけではありません。しかし、刺さっているものの他に、自分で更に足しているものがある。足した分で悩み苦しんだり、動けなくなっている人がいるのです。
二の矢を自分に放っていませんか?
刺さった毒矢を味わおうとしていませんか?
先ずは矢を抜きましょう。詳細はあとから解析すれば良いんです。